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高山右近像

2014年は戦争のない平和な年になりますように!
私たちは日本のキリシタン巡礼を皆様と分かち合いたいと考えております。
巡礼企画はカトリック信者に限らず一般の皆様にも御参加いただけます。
更新2014年7月22日(火)
京のキリタン巡礼


嶋崎賢児(しまざき けんじ)が京のキリシタン巡礼をご案内いたします。
プロフィール
隠れキリシタン嶋崎弥吉(1865年9月、長崎外海でプチジャン神父によってカトリックに復帰)の子孫(5代前)。
1935年  長崎市外海出津に生れる
1993年  30年在籍のコニカ京都現像所定年退職
1986年  イタリア、ローマ カステル・ガンドルフにて行なわれた文化交流、ローマ法王ヨハネ・パウロU世の
        金剛流薪能鑑賞写真撮影担当。
1994年  「ペトロ・岐部と187列福」の京都の大殉教列福調査証人
現 在   フリーカメラマン。労働大臣認定一級写真技能士。キリシタン文化研究会会員
       高槻高山右近研究会会員

嶋崎賢児が写真を担当した著書「京のキリシタン史跡を巡る」にて御案内させていただきます。
1. 南蛮寺
2. 日本二十六聖人発祥の地
3. 二十六聖人出発地
4. フランシスコの家(修道院・病院跡)・キリスト教文化資料館
5. 大徳寺
6. 瑞峯院(大友宗麟の菩提寺・十字の庭)
7. 高桐院(細川忠興・ガラシャの墓碑)
8. 廬山寺(キリシタン大名有馬晴信の妻ジュスタの墓)
9. 元和の大殉教跡
10. 妙心寺・春光院(南蛮寺の鐘)
二十六聖人
二十六聖人発祥の地
 文禄2(1593)年秀吉の招きで来日したフランシスコ会ペトロ・バプチスタ神父他宣教師達は、秀吉から四条の堀川近くにあった旧妙満寺跡の広大な土地を与えられ、この地に聖堂が建てられます。当時は応仁の乱の後で都には貧困者や行き倒れる人達が多く、この人達のために宣教師やキリシタンたちは、献身的な働きをすることになります。やがては、この聖堂に隣接して聖アンナ病院、聖ヨゼフ病院が建てられていくことになります。病院を運営するにあたって医師、看護する人たちが必要であり、キリシタンたちは、この病院のそうした働きに参与するため、この地に移り住み日々献身していきました。このようにして出来た信徒たちの群れをデウス(神)を信じる人たちの町として、ダイウス町と呼ばれていました。

二十六聖人出発地
   現在、四条通り堀川に建つ四条病院の入り口には、日本二十六聖人の出発の地を記すレリーフがはめられています。長崎市の西坂の丘で殉教した二十六聖人と呼ばれる人たちが、この地域で捕らえられ長崎に送られたキリシタン達でありました。
 世界の最も貧しい人々に奉仕したいとインドを訪れたマザーテレサの働きが、世界中に知られ、1979年にノーベル平和賞を得ました。しかし、今から四百年程前にも、殉教者ペトロ・パブティスタ神父達が都に聖堂と病院を建てられ、ここを訪ねた宣教師やキリシタン達の手によってこの地にも病に苦しむ人達に手厚い看病、世話がなされていたことを、現代の私たちは、改めて驚きをもって知る事になります。医者として献身し、身を寄せ合って看護に当たった都のキリシタン達、その中にはかいがいしく使い走りに奉仕をしていただろう少年たちもあったということです。これらの人達が、礼拝の場所から引き立てられ、耳を削がれ、京の町を見せしめのために引き回され、八百キロにおよぶ苦難の道を長崎へと旅立っていったのです。貧しく病める人々のために、人々と共に、そして人々によって、この病院が心熱く祈りの中に守られていたことを私たちは忘れてはなりません。
フランシスコの家(修道院・病院跡)・キリスト教文化資料館
四条通り堀川を一筋西、四条岩上通りを下がると、いまも昔の修道院や病院を記念するために、フランシスコ会の手によって、フランシスコの家、聖堂が建てられています。
 奥には、畳敷きの御堂があります。床の間の掛け軸にキリスト像が描かれている様子は大変珍しいですが、昔のキリシタンとの隔たりを忘れさせてくれます。墨で描かれたキリスト像は『愛』という文字で書かれています。
 苦難の時代を生きたキリシタン達の大切な遺物がキリスト教文化資料館として展示されて、私たちの心に感動を与えてくれます。彼らが手を合わせたであろう十字架、お碗、踏み絵などが、今も大切に守られています。この地を訪ねることは、生きることの希望や人を愛する事の尊さを教えてくれるでしょう。一度訪ねてみて下さい。
都の聖母 Notre Dome de Miyako
1847年フランス東部のジュラ県ディーニャ村で主任司祭であったレオン・ロバン神父は日本における壮絶な殉教史を知り「日本人の改宗のための祈祷会」を創設し活動を開始されましたが、その呼びかけはフランス全土を越えて広がり大きな動きとなった。ロバン神父は都に教会を建てたいというザビエルの願いを叶えようと、彼が日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで、膝の上に幼いイエスを抱く六体のブロンズの聖母像をローマで作らせた。そして1865年12月31日教皇ピオ9世による祝別を受け「都の聖母」Notre Dome de Miyakoと命名され、翌1866年、その中の一体が横浜にいたジラール神父のもとに届けられ、それを京都が見下ろせる丘の上に埋めるよう、パリ外国宣教会に託されたのです。禁教令下の1873年ヴィグルー神父の手によって東山将軍塚に埋められましたが、1873年禁教令がとかれた後、宣教のため京都に赴任されたヴィリオン神父の手によって1879年掘り出されたものです。以来、この像は河原町教会で大切に保管されてきましたが、2004年新たに地下聖堂を設け、都の聖母に捧げられました。
南蛮寺

リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風(部分)
南蛮寺
キリシタン大名達が都に教会を建てることを求め望んだが、妨害にあって容易に実現しえなかった。やがて苦労の末に都の姥柳町にに地所を入手でき、1575年にはイタリア人司祭オルガンティーノが高槻のキリシタン大名高山右近達の協力によって壮麗な三階建て、日本風な大教会の建築に着手し、翌年の夏、日本暦の7月21日、京都にはじめての本格的な南蛮寺が完成したのです。7月21日は西暦の8月15日で、ちょうど聖母被昇天の記念日です。この日を記念し、壮厳なミサがこの聖堂で捧げられたのです。8月15日はフランシスコ・ザビエルがくしくも苦難のすえに日本を訪れた上陸記念の日でもありました。美しい鐘の音が鳴り、京都の人々の憧れを誘った、木造建築で見上げるばかりの都の南蛮寺。今日私たちはその姿を見ることはできませんが、この姥柳町一帯や南蛮寺を今も思い起こさせる場所が神戸にあります。狩野派の画家、狩野元秀の描いた絵が今も神戸市立博物館に残っているのです。扇面に都の町並みの中に建つ三層の南蛮寺が書き写されています。1587年に秀吉のキリシタン禁令によって京都の南蛮寺は破却され、その姿をとどめることはできなかったが、京の都には2〜3ヶ所に南蛮寺が建てられていたと言われています。
大徳寺
  大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
車の行き交う北大路堀川を西に行くと北側に臨済宗大徳寺派大本山「大徳寺」があります。本坊を中心にして、まわりに塔頭が並んでおり、その中から二つのお寺を訪ねます。
大徳寺 瑞峯院(大友宗麟の菩提寺・十字の庭)
瑞峯院は、大徳寺塔頭の一つで大徳寺山内の千体地蔵塚の南にある。
室町後期の天文4年(1535)、九州豊前・豊後(今の大分県)の領主の大友宗麟が、若い時に大徳寺開山大燈国師から法系第九十一世徹岫宗九禅師に帰依し、ここで修行をしたそんなご縁があって、菩提寺として建立されたと言われる大友宗麟ゆかりの寺として有名です。大友宗麟(義鎮)は、二十代で得度し、宗麟と名のった。その宗麟が後にキリシタンとなりました。1961年に現住職がそのことを記念して、北庭に十字の庭を造りました。方丈の南は、美しく波打つ白砂の中に石が配置された枯山水の蓬莱山形式の庭園です。廊下を西から裏に回ると、余慶庵という茶室があります。この建物の間の庭が十字の庭です。
ここには又、利休が京都府下の大山崎に建てた国宝の待庵の写しが平成になって復元されました。
もう一つ有名なのが「閑眠庭」、十字架の形の庭です。美しい白砂に浮かぶようにして縦・横に七つの石を十字に並べてある庭がつくられています。東の坪庭にはキリシタン灯篭と呼ばれる織部灯篭が十字の庭を望んで立てられています。そこから目を西に転ずると石がまっすぐに十字に並んでいるのが見えます。
高桐院(細川忠興・ガラシャの墓碑)
高桐院は、細川ガラシャで有名な細川家の寺です。1601年に細川忠興(三斎)が父の幽斎の菩提を弔うために創建された大変由緒ある寺です。細川幽斎公といえば、天正年間に高齢で亡くなりますけれども、その遺言によってその遺骨はこの高桐院におさめられています。
(茶人利休七哲の一人として深く茶をたしなんだ武将の細川忠興。玉(玉子ともいう。後の細川ガラシャ)はその細川家に嫁ぎます。父親は、あの信長に本能寺で反旗を翻した、明智光秀です。夫忠興と父との間で心を痛めていた玉は、やがて高山右近やキリシタンの信仰にひかれ、ガラシャと洗礼名を受けた有名なキリシタンになっていきます。)
 門をくぐると別世界に入ったような静けさです。四季折々の美しさに心奪われます。春はしたたる程の緑、秋には燃える美しい紅葉にむかえられ、宗教的な世界へ誘われます。
 本道脇から、庭園へ降りることが出来、飛び石伝いに庭園を回ることが出来ます。庭園奥には、細川忠興(三斎)とその夫人ガラシャの墓とされる石灯籠があります。この石灯籠は千利休が愛用した灯籠であったが、秀吉が欲しがったため、灯籠に一角を壊して召し上げられるのを逃れたといわれる灯篭。利休が切腹の前に遺品として三斎に贈ったものと伝えられています。またその横には、細川幽斎をはじめ歴代の墓もある。境内墓地には、他に歌舞伎踊りの名古屋山三郎、出雲の阿国(キリスト教と共に渡ってきた新しい文化を人々は南蛮ものと呼んで受け入れましたが、その中に、京都の四条河原で、歌舞伎を始めた出雲の阿国の舞姿が描かれた南蛮屏風があります。その舞姿の阿国の胸にしっかりと十字架が下がっているのです。徳川美術館所属)の墓などがあります。
廬山寺(キリシタン大名有馬晴信の妻ジュスタの墓)
キリシタン大名有馬晴信の妻で、自らもキリシタンのジュスタの墓がある寺院。紫式部が「源氏物語」や「紫式部日記」などを書いた紫式部の屋敷の跡に建てられた寺といわれ、多くの観光客が訪れる名所でもあります。苔に彩られた美しい庭も有名。
 この廬山寺の本堂をでて、南の路地を東にたどると、この寺の墓地に向かいます。たくさんの墓石の中で、気になるのが、供養塔が多いことです。その供養塔の中に、ジュスタの墓があります。ジュスタは、後陽成天皇の正室の妹でありますが、1580(天正8)年、今出川の公家・菊亭に嫁いでいきます。その後、キリシタンだった小西行長の計らいで、晴信と結婚をし、のちにジュスタという洗礼名をうけた大名夫人となるのです。キリシタンとしての生涯を全うし、そしていま、この地に静かに眠っているのです。菊亭家と記されているのは、晴信の死後、ジュスタは、菊亭家にもどったためと考えられています。
元和の大殉教跡
東山沿いに都の大殉教の跡があります。今から四百年ほど前、1619(元和5)年、都のキリシタンに対する大きな弾圧が始まっていきます。
京都の町にはキリシタンたちの働きが広く及んで、都のあちこちにダイウス町(デウス"神"を信じる人たちが集まってできた集落のこと)と呼ばれている地域が形成されて行きます。デウス→ダイウスやがてダイウス町と呼ばれるようになり、今日まで名前が残っているところです。
 都にキリシタン弾圧が始まると、このあたりに住んでいる人たちは、自分のふるさとに帰ったりして散っていく人たちもいましたが、中には、むしろ弾圧を恐れないで、新しくキリシタンになっていく人たちもいました。やがて弾圧はそういう庶民一人ひとりにまで及ぶようになり、多くの人たちが捕らえられて、牢につながれていきました。京都には何か所かに牢があったといわれていますが、キリシタンたちは二条城の南(小川町)などに捕らえられていたといわれています。
都の大殉教と呼ばれているこの殉教もその一つです。数十名の中から京都の町衆のみせしめに五十二名のキリシタンたちが処刑されることになりました。
十月六日、彼らはそれぞれ荷車に乗せられて、かつて二十六殉教者が通った道をたどって京都の町の引き回しが始まります。都大路を通って、六条河原へと進んでいったのです。六条河原は、この都の大殉教と呼ばれた元和の殉教の跡地になります。
妙心寺・春光院のイエズス会の鐘
右京区・花園にある妙心寺。この寺は、臨済宗妙心寺派の大本山で、三万坪の敷地内には、四十をこえる塔頭、寺院がこの中に位置していますが、その中の一つに春光院があります。春光院には現在京都の南蛮寺の一つにかけられていたと考える釣鐘が今もの残されており、国の重要文化財に指定されています。
 このヨーロッパ風の銅製の鐘には、イエズス会派の紋章とおぼしき十字架とIHSの文字が鋳刻され、さらに「1577」(西暦)とも刻まれています。大きさは高さ60cm、重さ68kgほどのもので、どこで鋳造されたかは不明ですが、春光院の寺伝ではポルトガルで作製されたものと言われています。IHSとはギリシャ語でキリストという意味があるのだそうです。ただし一般公開はされていません。
 春光院の中は、狩野派狩野永岳によって描かれた障壁画がいまも鮮やかに美しさを見せている。南蛮寺は日本各地に100を越えて建てられたが、そのすべてが跡形もなく取り壊された。ただ、この美しい京都の三階建ての南蛮寺だけが、狩野派の画家によって描かれ、神戸の博物館に残っている。春光院の鐘は、この南蛮寺の鐘だったと考えられています。
 1577年と銘記されているこの寺の釣鐘は、今日でもなお美しい音を立てながら半鐘として現在も実際に使われているそうです。(西洋の鐘ですから、外から打つのではなく、内側から打たれています)。この美しい音色がかつて四百数十年前に京都の町で美しい音を響かせていたことを思うと私たちは胸が高鳴るのを覚えます。
 どうしてこの釣鐘がこの春光院に渡ってきたにかは、よくわかっていないということですが、1854年ころ、妙心寺の北に建つ仁和寺からこの寺に送られてきたと聞いております。
実はこの鐘は太平洋戦争のさなか、飛行機や大砲、軍艦を作るために家庭にある釜さえも拠出が軍から求められ、この寺にも要請がきました。その当時の住職は、初期のキリスト教布教のために送られてきた信仰の大切な信仰の証であると考えられて、これを拠出できない。クリスチャンのためになんとかのこさなければならないと毅然とそう考えられて、これを地中に埋めて守ってくださったそうです。そのためにこの寺のなかの大事なものがいまも欠けているそうです。それは、このキリスト教の鐘を救うために住職が心を尽くしてなされた愛の業なのです。とかく私たちは、異宗教と考えて、これまで仏教のことについて、心遣いのない伝道の仕方をしたり、また受け止め方をしたという歴史がありますが、このようなキリスト教にとって大事な宝を住職が、本当に心を尽くして今日まで守ってきてくださったことに心を向けて、感謝しなければならないでしょう。
鐘の表面三本の線が入っておりますのは、多分、三位一体を表わしたものかと思われます。そして真ん中に年号が入っていまして、イエズス会の紋が描かれ、その紋の所に三つの釘のようなものが見えますが、これは、キリストの両手、両足に打ち付けられた釘を象徴しているものです。
 最初にご案内しましたように、この妙心寺の春光院は、じつは一般公開されていない塔頭で、もし、どうしても拝観させて頂きたいと希望される方は、手続きを踏んで了解を得て拝観させていただくということをおろそかにしてはならないと思います。寺にとっても大事なものであるばかりでなく、私たちキリスト教信者にとっては、大切なキリスト教の信仰の証であり、遺跡でありますから、温かく保存してくださったお寺さんに対して敬意を持ってその厚意に報いる心遣いが大切だと思います。
キリシタン巡礼センター TEL:0728-63-6667FAX:0728-63-6668 E-mail:pilg@com-unity.co.jp
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センター(open)土、日、祭日を除く午前9時30分〜午後5時30分、以外の時間帯はFAX,E-mailでお問い合わせください。
キリシタン巡礼センター 〒575-0043 大阪府四條畷市北出町13−5 コムユニテイ内

Com-unity 13-5 Kitade-cho Shijounawate-city OSAKA JAPAN
Produced by ChristianPilgrimage Center 2011 Aug