【ロレートの聖なる家と日本のカトリック信者】

Fr.ジュゼッペ・サンタレッリ(カプチン会)
【ロレートの聖なる家と日本のカトリック信者】
Fr.ジュゼッペ・サンタレッリ(カプチン会)
日本への宣教開始当初の頃から、ロレートの巡礼教会と日本人カトリック信者とを結ぶ絆には、強いものがあった。サンタ・カーザ(聖なる家)の聖母にたいする彼らの崇敬心は、近年多数の日本人信者からの世界共同信心会への登録によって、盛り上がってきている。すなわち、この信心会への登録によって、ロレートの大聖堂で毎朝8時に捧げられる永遠のミサ(メッセ・ペルペトゥエ)の霊的果実に参加できるというものである。そこで、ロレートの大聖堂と日本のカトリック信徒との関係の歴史を回想してみたいと思う。
1. フランシスコ・ザヴェリオ:
彼は、聖なる家から日本の宣教に旅立つ
ロレートに関する歴史家たちは、東洋の使徒聖フランシスコ・ザヴェリオが行なった聖なる家への2回の巡礼について強調している。一回目は1537年、二回目は1540年になされたが、そのうちでも彼らは、特に二回目のものに注意を向けている。
1540年に教皇パウロ3世から、イエズス会が承認を受ける前の1534年、ザヴェリオは聖イグナチオ・ロヨラの仲間となった。1539年、彼は聖イグナチオの秘書として、ローマに滞在している。
当時ポルトガルの王ヨハネ3世は、インドの南東地方のために数人の宣教師を送ってほしいと聖イグナチオに頼んだ。そこでこの聖なる創立者は、シモン・ロドリゲスとニコラ・ボバディリヤを選んだ。しかし後者が病気になったため、その代わりにフランシスコ・ザヴェリオが指名され、彼はすぐに快く、熱心をもってそれを受け入れた。
フランシスコ・ザヴェリオは、東洋に向かって船に乗り込む前に、聖なる家に巡礼したいと思い、自分の家族を伴ってきたポルトガルの大使ピエトロ・マスカレーナスと共に1540年3月16日、ロレートに向かってローマから出発した。彼らは、枝の祝日に当たる日曜日の数日前にロレートに到着し、8日以上そこに滞在した。
 聖フランシスコ・ザヴェリオは、ローマに住んでいたロヨラの聖イグナチオに当てて、1540年3月31日にボローニャから送った一通のラテン語の手紙の中で記している。『ロレートの我らの聖母の教会の中で枝の祝日の日曜日、私は彼の(ポルトガル大使の)告解を聞き、ご聖体を施しました。また彼の家族の多くの人も同じことをしました。私は、我らの聖母の礼拝堂の中でミサを司式し、大使もそれに参列しました』。

"チェザレ・ペルッツィ(1894〜1995)聖なる家の中で、ポルトガル大使に聖体を授ける聖フランシスコ・ザヴェリオ。
ロレート、インドカトリック信徒  礼拝堂内 (1933)"

イエズス会の歴史家二コラ・オルランディー二は、東洋におけるザヴェリオの宣教に関する非常に重要な情報、のちに他の著述家からも繰り返された情報を提供してくれる。1615年、オルランディー二は書き留めている。『聖フランシスコ・ザヴェリオがロレートの家の中でミサを司式していたあいだに、聖母は、インドと世界全体のためにまことに重大に思える、ある特別の意向を思いつかせられました』。
マルトレッリは少々誇張を帯びた口調で、このことについて説明している。『ゆえに、ザヴェリオによって行なわれた日本、および極東の改心は、ロレートの聖母によるものである』と。
 インドのカトリック信者たちに捧げられたロヨラの聖イグナチオと聖フィリッポ・ネリの礼拝堂のために、1932年、マルケ地方の画家チェザレ・ペルッツイは、聖フランシスコ・ザヴェリオが聖なる家の中で、家族に取り囲まれたポルトガルの大使、ピエトロ・マスカレーナスに聖体を授けている姿を描いた。

2. ロレートの巡礼聖堂の中に見られる、
最初に洗礼を受けた日本人の姿
聖フランシスコ・ザヴェリオは、1541年4月7日、リスボンの港からインドに向けて出発することに成功し、1542年5月6日、ゴアに到着した。精力的な動きに満ちた宣教活動のあと1547年の中頃、彼は再びマラッカに移ったが、そこでヤジロー(ラテン語式にアンジェロと呼ばれた)という、東シナ海で元海賊として殺人も犯したことがある一人の日本人に出会った。彼はこの宣教師に、日本人は学識があり、学ぶことに意欲を持ち、「道理によって導かれること」を好む国民だと、素晴らしい描写をして日本人を紹介した。ザヴェリオは、このヤジローの言葉に魅惑されて、二人のイエズス会の仲間、コスマ・トーレス神父とジョヴァンニ・フェルナンデス修道士とともに、今度は日本に向けて出発することを決意した。
 出発する前、1549年の春から初夏にかけてゴアにおいて、聖なる信仰のパウロという洗礼名を与えて、彼はヤジローに洗礼を授けた。この新しい改宗者は、通訳をしながら彼の日本での宣教事業を助けた。
 1549年8月15日ザヴェリオは、九州の南部、鹿児島に上陸した。彼は、神の十戒を日本語で学ぶために40日を費やしたが、その後慰むべき、人々の改宗の結果を獲得した。彼は日本人の本質について、ゴアのイエズス会士にあてて次のように記している。
 『今までに私たちが語ったこの地の人々は、かつて私が出会った民族の中でも、より良い本性を持った人たちです。未信者の中で、この日本人より秀でる国民は、他に決していないのではないかと信じます。食物においては質素で、多くの人々が読み書きを知っており、一人だけの妻を持ち、泥棒は少なく、神に関する事柄について聞くことを愛します』。ヤジロー本人も、自分の親戚や知人のあいだで百人以上の人を、キリストにおける信仰へ導いた。
 ロレートの大聖堂(バジリカ)、インドカトリック信徒の礼拝堂の右側上部の絵画の中に、1932年チェザレ・ペルッツイが、ヤジローに洗礼を授けている聖フランシスコ・ザヴェリオの姿を描いたものがある。ヤジローのまわりには、水盤を手にしているイエズス会士の他に、感動し崇敬心をもってこの式に参列する幾人かのマラッカのクリスチャン達の姿がある。これは、ロレートの巡礼大聖堂と日本人カトリック信徒たちの間の絆をより強いものとする興味深い聖画像ドキュメントであると言えよう。
"チェザレ・ペルッツイ(1894〜1995)聖フランシスコ・ザヴェリオは、最初の日本人キリスト信者、ヤジローに洗礼を授ける。  ロレート、インドカトリック 信徒礼拝堂(1933)"

聖フランシスコ・ザヴェリオの東洋における宣教活動についてエッシュバッハは、『彼は、インドや日本に福音をもたらすこと、という照らしをロレートにおいて受けた』、という事実を思い出させたあとで、ロレートの聖母崇敬にまつわる愛すべき詳細を加えている。
『この偉大な使徒は、彼が自分の崇敬心に満ちたあの巡礼の思い出として、またそうする目的で自分の手で書き記した、ロレートの聖母の連祷の祈りに人々を触れさせることによって、東洋の人々を癒していた、ということが知られている』。
3. 1585年、日本人貴族のロレート訪問
 1585年に行なわれた日本の貴族のローマ、その他の都市の訪問の出来事は、イタリアとヨーロッパに大きな反響を呼んだ。その事実は、次のような次第で運ばれた。
 1579年7月、東洋の宣教地訪問者として、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーニ神父が日本を訪れた。彼は、すでに百五十万人のクリスチャンがいるのをみたが、彼らに奉仕する宣教師は59人(そのうちで司祭23人)しかいないことを知った。彼は賢明にも、日本を豊後(ぶんご)、肥前(ひぜん)、都(みやこ)の三つの管区に分け、有馬に一つの神学校を創立することを考えた。さらに宣教師は、できるだけその土地の習慣のすべてに順応するべきであるという考えを、強く指示した。
【ヨーロッパへの日本人貴族の派遣】
 内部の問題の解決を待つほかにも、ヴァリニャーニ神父は、二つの目的をもって、ローマに日本人貴族を使節として派遣する計画を推進した。それは、派遣された日本人側から、ローマ教皇への従順と尊敬の行為を獲得するためと、もう一つは、ヨーロッパ文化の進展と、カトリック教会の素晴らしさを彼らに知らせることであった。
 キリスト信者である豊後、有馬、大村の君主たちは、このヴァリニャーニ神父の提案を受け入れた。派遣員としては、彼らの近い親戚の中から、まだ若い人たちを選んだ。なぜならそのほうが、もっと長い旅行の困難を我慢することが可能だからである。豊後の大名フランシスコは、自分の代表として彼の親戚の一人、伊東マンショを選び、有馬のプロタジオ大名と大村の君主は、彼ら共通の親族の一人である千々石(ちぢわ)ミゲル(ミカエル)を指名した。彼らに加えて上流社会の貴族の数人も参加したが、この中には、中浦ジュリアンと原マルチノがいる。
 数人のイエズス会士とヴァリニャーニ神父自身に付き添われた日本人使節の一行は、1582年2月20日、ポルトガル船に乗って、長崎港から出発した。長い旅行中の幾つかの停泊期間中、彼らは特にマラッカとゴアではラテン語を習い、さらに西洋の文学を学ぶことに時を利用した。1584年の8月10日になって、やっと一行はリスボンの港に到着した。マドリッドでの一時滞在のあとアリカンテから出港し、そして遂に1585年3月1日、リヴォルノに上陸したのであった。
【日本人貴族ローマへ】
 教皇グレゴリオ13世は、教会領地の入り口のところで、儀仗兵を派遣して使節の一行を歓迎された。日本人貴族たちは3年と32日間の旅のはてに、遂に3月22日ローマに到着したのであった。
 グレゴリオ13世の教皇宮中の歓迎式は荘厳なものであった。教皇代理使節の日本語での短い演説のあと、ポルトガル人のイエズス会士コンサルヴィー神父が、日本における宣教活動の素晴らしい成果を示しながら、パパ様の前でラテン語で講話を述べた。アントニオ・ボッカパドゥリは教皇の名において、ペトロの後継者は日本人使節たちの尊敬と従順の表示行為を快く受け入れたことを使節団に確証した。
 その後に続く宴会には、枢機卿フィリッポ・ヴァスタヴィッラーニも参加したが、この存在は重要なものである。なぜなら当時彼は、ロレートの巡礼教会の保護者だったので(1580−1587)、日本人使節団に聖なる家を訪問するようにと、彼が招待したのではないかという可能性が充分考えられるからである。
 1585年4月10日のグレゴリオ13世の死去のあと、日本の使節たちは、新しい
教皇シスト5世から寛大で懇切丁寧な歓迎を受け、教皇は旅行費用のためにと、彼らに3千ドゥカーティのお金を賜った。さらにローマ市民は、日が昇る国からの名門のお客様たちに、名誉市民の称号を与えた。
 1585年6月、日本人使節団はローマをあとにし、スポレート、ペルージャ、ロレート、フェラーラ、マントヴァ、ミラノなど、イタリアの幾つかの町に向かった。彼らは行く先々で偉大な歓迎を受け、その後リスボン港から、日本に向かって帰途の旅についたのであった。
"16世紀の日本芸術による非常に貴重な書見台。多分1585年に日本の貴人たちからロレートの巡礼聖堂に贈られたものであろう。"

【ロレート訪問】
 約20人ほどの随員とともに日本人使節団は、トレンティーノ、マチェラータ、レカナーティなどに滞在したあとで、1585年6月11日ロレートに到着した。マルカの知事からの日本の使節団の到着を知らされたレカナーティの市役所は、「二人の代表者を任命し、相応しい方法で
日本の大名(王様)の甥たちの歓迎を世話するように、また行政官は、もっとも荘厳に彼らを迎えてお連れするようにと指図した」と、モナルド・レオパルディは書き記している。
 ロレートで彼らに向けられた歓迎については、このできごとがあった翌年1586年に、グイド・グアルティエリによって機関誌上に掲載された報告によって知ることができる。ここでは、的確な詳細の指摘と追加などをもって前後関係を正しながら、ロレートに関する文章の自由な筆写をしている。
 名高い日本からの客人達は、当時の巡礼聖堂の長官であったボローニャのモンシニョール・ヴィターレ・レオノーリ(1583〜1587)自身によって、ロレートから1マイルの場所で迎えられた。長官は、マリアセンターの著名な人たちに伴われていた。その後すぐ200人の銃兵たちが彼らを待ち受け、ロマーナ門の近くにはその他の市民の人々がいた。
 彼らは「ラッパと太鼓と多くの銃砲の音」をもって迎えられ、その中で全ての聖職者たちが待ち受けるバジリカの中へ入堂した。「非常に心地よい音楽」とともに、すぐにテ・デウム・ラウダムスの合唱が響き渡った。日本からの貴人たちは、この高貴な歌に伴われて、当時は、現在のポーランド礼拝堂の場所にあった聖なる秘跡の礼拝堂の前に行き、そこから聖なる家の中に足を運んだ。
 非常に信心深い態度をもって行なわれた祈りのあと、彼らは司教館、すなわち「長官の建物の中に豪華に準備された」、彼らのためにあつらえられた客室に上っていった。翌朝には荘厳ミサが捧げられ、この間日本の客人たちは、歌隊の内部にもうけられた「王様の天蓋の下」に座を占めた。当時のこの場所は、ロレンツォ・ロットによる素晴らしい織物画で飾られた、現在のスペイン礼拝堂に当たる。
 長官はお客に、「偉大な豪華さをもって」食事の宴を催した。それから貴人たちは、まことに貴重で豪勢な銀器や香部屋の垂れ幕などを賞讃した。翌日は聖なる家の内部でご聖体を拝領し、聖母に挨拶をした。その後「皆は、これほど浄く(きよく)聖なる場所を訪問できたことで慰めに満たされて、アンコーナに向かって出発した」のであった。
 こうして彼らは、その45年前に聖フランシスコ・ザヴェリオがミサを捧げ、抱いていた東洋の宣教の意図に活気を与えられたナザレトの小聖堂そのものの中で祈り、ご聖体を受けたのであった。或る人たちによれば、日本からの貴人たちは、この巡礼聖堂に豪華な贈り物を残したということである。
4.日本における古い「聖なる家の転移」の絵
 日本には、一枚の「聖なる家の転移」の絵画が存在している。それは最初1961年に黒白の絵として知られ、その後1970年色彩画として紹介された。それは、亜鉛のプレート上に油で描かれたイタリアの絵画である。(12.1×9.1cm)。
"一時期崇敬され、今日では日本で保存されているもの。亜鉛プレートの上に油で描かれた古い「聖なる家の転移」の絵"

日本人研究家デベルグ・みな子博士は、この絵画はカトリックの宣教師たちによって日本にもたらされたものであると述べている。17世紀初めの頃、クリスチャンに対する迫害の時代に、それは隠された。しかし20世紀初めに、一つの長持ちの箱の中にあるのが再発見されて、大阪の中谷コレクションの一部となるに至った。現在の日本語のテキストが、この話題について注釈している。デベルグ博士が、そのフランス語での翻訳を提供してくれているが、イタリア語では次のようになる。
  「ロレートの聖母(中谷コレクション。大阪)。ナザレトと聖家族の家は、回教徒たちに占領されたと言われている。この家は、幸運な町、巡礼の偉大な場所であるロレートに運ばれた」。
 古典的構図でほとんど記念碑的とも言える、このマリアと幼いおん子の姿は、16世紀、多分その前半の頃の絵ではないかと想像される。上部の文字は、LORETAと書かれている。これは、15世紀にロレートの聖母が呼ばれていた称号であった。たとえばジャコモ・リッチは、1469年頃にラテン語で書いた手記を「乙女マリア・ロレータの歴史」と題して、この名称を与えている。
 ゆえにこの絵の中に描かれたロレータという言葉は、私たちを遠い昔に連れて行ってくれる。この聖なる家は、質素な家というよりも、まさに15−16世紀のこの種の作品例に認められるように、むしろ立派な教会として描写されている。
 これは、16−17世紀においての日本で、ロレートの聖母への崇敬を記録する貴重な絵画である。非常に可能性があるのは、この亜鉛プレートは、イエズス会の宣教師たちによって、イタリアから日本へ持って行かれたのではないか。彼らは、ロレートの手工業品の市場でこの古い作品を買ったか、または他の場所でそれを回収したのではないか。
 当時ロレートの聖なる家の管轄に当たっていたのは、ロヨラの聖イグナチオの関係で、イエズス会であったことを思い出すことが必要である。
 彼らは巡礼聖堂の権威筋からの要請に応えて、1554年11月4日、14人のイエズス会士をロレートに派遣した。彼らは、日本を含めて多くの国々に散らばっていた彼らの宣教地に、ロレートのマリアに対する崇敬を広めるために努力したのであった。
5.ジュゼッペ・マリア・コーレ:20世紀の日本における
ロレートの聖母への崇敬者、およびその使徒
 日本のキリスト信者にとって何世紀にもわたる沈黙のあと、遂に19世紀の後半になって、この国にも宣教活動の栄えある時期が再来した。

 すなわち1865年長崎に、カトリック宣教師たちによって、その少し前(1862年)に教皇ピオ9世によって列聖されたパウロ・三木とその仲間、日本の26人の殉教者を讃えて、一つの教会が開かれたことである。1865年3月17日、この機会に15人ほどの人がプティジャン神父のところに来て、聖母マリアのご像を拝することができるかと尋ねた。彼らは、250年前から迫害を受けていた、もっとも古くからのクリスチャンたちであった。彼らは秘密のうちに信仰の遺産を子孫代々に伝えることによってそれを守り、実践してきたのであった。
 この感動深い発見の思い出を記念して浦上天主堂が築かれ、その後それは「日本の聖母の天主堂」となり、3月17日に祝われる。聖母のご像の台座の上にプティジャン神父は、さらに二つのラウレターナの連祷(リタニエ・ラウレターナ。「聖母の連祷」としての日本語の祈祷書にもあるもの)の祈りを刻ませた。すなわち『殉教者の元后とキリスト信者の助け』である。

 19世紀の多くの宣教師たちの中でも、特にフランス人のジュゼッペ・マリア・コーレが際立っているが、彼は1870年頃日本に赴いた。
 自国フランスを出発する前、彼はロレートの聖母に自身を奉献した。そして日本における彼の長期にわたる使徒職活動のあいだにも、時々聖なる家の巡礼聖堂に手紙を送っていた。1893年、機関紙「ロレートの聖母」は、一つの非常に意味深い文章を発表している。日本におけるロレートのマリア信心の普及を示す、一つの興味深い文書として、それをここに再現してみよう。
 『ブルターニュでの習慣のように裸足で、頭に何も被らず、首にロザリオをかけて、厳かなあの部屋の黒ずんだ壁に接吻し、聖母が私に惜しみなく与えてくださっているお恵みについて感謝するために、聖なる家に行くことがもし出来たとしたら!私の町とロレートとは5千マイルも離れているのです!しかし私は、ただ天国に値するために、マリア様の栄光のために働くことで満足して、この燃えるような望みをあきらめなければなりません。
しかし、どうか聖なる家の普遍的共同信心会に登録するという恵みを、私に与えてください。私はそれを天国の門のように敬い、私の改心者たちをそれに登録することによる効能に加えて、他の百万人の登録者たちと一致して捧げる祈りによって、ある日イエズス・キリストに対する執拗な敵の頭上に、完全な勝利賛歌を歌うことに成功し、きっと日本は、その信徒の輪を広げることができるでしょう』。

 さて近年、慰め深く、想像もしていなかった方法で、日本人カトリック信者のあいだで聖なる家の聖母への崇敬が再び開花しつつあり、世界共同信心会への登録の要請が続いている。家族または個人登録証明書も日本語のものが用意されており、やはり日本語で書かれたロザリオの玄義と聖母の連祷(リタニエ・ラウレターナ)の祈りが書かれ、ともにヴェールの遺物をおさめた装飾のほどこされたご絵が、証明書とともに、登録した人々に送られる。

 1961年の春には著名な日本人の詩人、坂本てつおが、小説家トゥリオ・コルサルヴァティコに伴われて、ロレートの巡礼聖堂を訪問したが、彼は、エミリオ・チェッキの小説を読んでいて「飛ぶ家」について語られているのを知った、と打ち明けた。彼は、バジリカの芸術的美しさに深く感嘆していた。

6.ロレートにあるいくつかの日本の遺物
  ロレートには、日本で創作された二つの書見台と一つの屏風が、大切に保存されている。二つの書見台(各々42×27cm)は、ミサ典書を置くために祭壇上で使用するためであり、専門家によると、桃山時代(16世紀)にまでさかのぼるものである。二つの材質は貴重な木材で、貝殻の真珠層で装飾が施され、黒とうるし塗りである。その品質と珍しさのために、その芸術的および歴史的価値は計り知れないものと判断されている。
 現在それらは、聖なる家の資料館の中に大切に保管されている。いったいどのようにして、またなぜ、それらがロレートにまでもたらされたかについては、よく分かっていない。ただ憶測によって計るしかない。
 ある著述家によれば、1585年の6月11−13日の日本の貴人達の訪問の際に、彼らは巡礼聖堂に『豪華な贈り物』を残していった、と言われているようだ。ローマでは、彼らはグレゴリオ13世に貴重な贈り物を捧げ、そのうちのものとして、明らかに一つの黒檀の書き物机のことが記されている。さらに、日本の町を描いた絵もあるが、それはヴァチカンの蒐集物のうちに納められた。ロレートにある二個の書見台も、日本の貴人たちからの贈り物であるという可能性が大きい。
 もし我々の探索から見逃されたのでなければ、ロレートへの日本人使節からのこの贈り物は、昔(1797年2月のナポレオンの略奪以前)聖なる家と宝物館に保存されていた数多い品物のリストの中には現れてこないのである。歴史関係資料館の中に保管されている1579年から1599年にかけての献上品の記録書のうちにさえ、このことに関する記録は見当たらない。
 さて二つの書見台の真中には、非常に繊細な円形の光線の中に、十字架が立った三つの造形文字が刻み込まれているが、それはイエズス会との関連を示している。このことは、日本におけるイエズス会宣教師たちと、二つの書見台の直接的関係を明示している。
 彼らのうちの数人は1585年にイタリアで、日本からの使節、伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルに付き添った。しかしもう一つの可能性が考えられる。
 それは、この二つの物品は、日本のイエズス会たちから、ロレートにいる彼らの兄弟である仲間たちに送られてきたのではないかということである。1773年の起こった彼らのロレートにおける共同体の廃止のあと、この二つの書見台は、現在に至るまでそれを保管している巡礼聖堂に、イエズス会から渡されたものではないかということである。
 もっと明白なのは、ロレートの美術館にある、いわゆる「パパ様たちの部屋」と言われている場所に展示されている貴重な日本屏風である。これに関してモンシニョール・ローリス・フランチェスコ・カポヴィッラは、自筆の署名つきで、次のような記録を残している。
 『日本の田園風景を表わす古典芸術による屏風。高価な木材の上に金箔で装飾をほどこしたもので京都で作られた。1962年11月20日に日本の首相、池田隼人氏から教皇に贈呈されたものである。教皇ヨハネ23世は、自身が1962年8月4日にロレートのこの部屋に短時間立ち寄られたときの思い出にと、これをロレートの使徒職庁舎に贈られた』。
 専門家たちは、この屏風は18世紀のものと評価しており、その細工の著しい貴重性を明示している。これらの遺品は、聖なる家の巡礼聖堂とカトリック信徒たちの関係に封印するものであり、彼らは多分、最初の宣教師、聖フランシスコ・ザヴェリオ自身の口から、その素晴らしい歴史についての話を聞き取ったに違いない。



"ロレートの美術館に納められている18世紀の日本の屏風"

"ヨハネ・パウロ2世 ロレートの巡礼にて;1979年9月8日"

【ロレートの聖なる家と日本のカトリック信者】 Fr.ジュゼッペ・サンタレッリ(カプチン会) より



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